- 豊友ハウジング トップページ
- > 街のお得!?情報 > 下総国分尼寺跡公園界隈
街のお得!?情報
下総国分尼寺跡公園界隈(散策)
市川市国分4丁目〜3丁目(JR総武線市川駅より国分操車場行きバス国分下車徒歩約10分)
今は市民の憩いの場所となった下総国分尼寺跡
下総国分尼寺(しもうさこくぶんにじ)は、天平13年(741)に聖武天皇が発した全国に一国一寺の建立を指令した“国分寺建立の詔勅”により建立されたもので、正式な名称は「法華滅罪之寺」だったそうです。当時は、下総国分寺を「東寺」、下総国分尼寺は「西寺」と呼ばれていたのだとか。明治の頃には、交通の足となっていた馬が道半ばで倒れてしまった時の供養にと、現在も国分尼寺跡脇には“馬頭観音”があります。
昭和7年(1932)に、市川市教育委員会が発掘調査を行い、寺域の範囲、主要建物の位置や配置、その他の施設などが判明したそうです。詳細については、公園内に説明板があるので参考に。いずれにしても、下総国分寺とは異なった典型的な東大寺式伽藍配置だったそうです。その後の発掘調査で出土された遺物には、土器、金属器、陶磁器、瓦などの他に、国分尼寺を表す「西寺」や「尼寺」と書かれた墨書土器があったと記録されています。
現在は『下総国分尼寺跡』は公園として整備され、近所の子どもたちの遊び場として利用されています。
アクセスはJR市川駅から京成バス「国分操車場行き」に乗車して「国分」下車する方法もありますが、国府台駅か市川真間駅から、ゆっくりウォーキングもお薦めです。住宅街にあり少し分かりにくいので、確かめながら散策しよう。
下総国分尼寺跡公園全景。
公園入口。
説明文によると、正面に金堂があり、その奥に講堂が並んでいた。
“下総国分尼寺跡”の石碑。
緑の中に白いコンクリートの塊が点在する不思議な公園。
点在する白い塊は、近づくとこんな形。まるで円盤のよう!
伽藍配置は南北の直線上に講堂を北にして金堂が南にある。この場所に金堂跡があった事を示す石碑。
講堂跡の石碑。
テントを張って日陰でピクニックをする家族もいました。
朱色の南大門が印象的な下総国分寺
下総国分尼寺跡公園から下総国分寺(千葉県市川市国寺3-20-1)まで歩いてみることにしました。この一帯は、国分川と真間川を見下ろす高台にあり、今は戸建ての住宅が多く建ち並んでいます。下総国分寺に向かう途中に、小さな公園があり、その中に「史跡 下総国分寺跡」と書かれた石碑がありました。当時はこの場所に、下総国分寺があったようです。
その場所から250mほど進むと、鮮やかな朱色の門が目に飛び込んできました。
下総国分僧寺は過去数回の火災をうけて、残念ながら当時の面影はないそうです。しかしながら、1300年の長い歴史を通して、多くの人々や檀家の力により再建され創建当時の面影を残しています。春には南大門左の桜、秋には大銀杏が愛でることができる美しいお寺です。
下総国分寺跡の史跡。
下総国分寺の南大門。大きさは当時の1/4なのだとか。
市川市教育委員会が建てた「下総国分僧寺跡」の史跡の掲示板。
“下総国分僧寺跡”としているのは、下総国分寺が現存しているからなのかもしれない。
国分寺南大門の歴史について書かれた文章。
南大門を正面から撮影。
門の両脇には、口を開けた“阿形像(あぎょうぞう)”と、
口を結んだ“吽形像(うんぎょうぞう)”の二体の仁王様が安置されている。
門の上部に掲げられた“金光明四天王護国之寺”。
明治の中頃までは「金光明寺」と呼ばれた行基菩薩開山の伝説があるそう。
現在の本堂。
鐘塔。
下総国分尼寺跡公園界隈(散策)
市川市国分4丁目〜3丁目(JR総武線市川駅より国分操車場行きバス国分下車徒歩約10分)
記事の内容に関しては失礼の無いよう十分配慮しているつもりではおりますが、
もしご紹介対象のお店の方や関係者の方で記事の削除・修正をお求めの方がいらっしゃいましたら、
こちらにご連絡頂ければ対応させて頂きます。